シリーズ:飛鳥の宮を求めて③(舒明天皇の岡本宮)
... 拡大してご覧ください 板葺宮跡 百済寺縁起 百済寺1 百済寺2 【舒明天皇の系図】 広姫は豪族・息長氏の子。舒明天皇4年に死去している。 【主な出来事】 舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。推古天皇時代の政治により ...

第34代、舒明天皇陵。
... 舒明天皇陵、押坂内陵(おしさかのうちのみささぎ)。植栽が綺麗に剪定されて心が凛とします。 遥拝所まで結構な勾配でした。 御陵守の事務所。ここでずっといるのかなあ、暇ではないのかな? 陵正面。墳丘は上円下方墳だ。

舒明天皇陵と鏡女王の墓。全国有名人の墓
... 付近には舒明天皇、大判皇子の墓もある 宮沢賢治=(身照寺)岩手県花巻市石神町 原敬=(大慈寺)岩手県盛岡市大慈町 楢山佐渡=(聖寿寺)岩手県盛岡市北山 津軽為信=(革秀寺)青森県弘前市藤代町 津軽藩歴代の墓=(長勝寺)青森県弘前市西茂森町 南部 ...

今日のn_o_i_s_e_m_a_n 氏【「長安」よりはるか後の「北京」 ...
... 舒明天皇の飛鳥岡本宮は、西へ20度もずれています なんなと、うるさい奴だね~~~。 この天空は、もう江戸時代ですら、今とは、かなりずれているんですよ?? 「長安」よりはるか後の「北京」は(天壇などを設けているくせに)真北方位が ...

今日は何の日? 1月4日
... 今日あった出来事 629年 田村皇子が即位し第34代天皇・舒明天皇に1877年 地租軽減を求める一揆の頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げ。「竹槍でどんと突き 出す二分五厘」 1879年 明治政府が ...

2004秋、吉野参詣(1):はじめに(by 旅人のくまさんさん)
熱田法人会の元城北支部の日帰り金峯山寺旅行に参加させて頂きました。その写真記録です。世界遺産登録を記念しての特別ご開帳を見学しました。その金峯山寺のあらましです。いくつかのインターネット情報を参考にさせて頂きました。
金峯山寺(きんぷせんじ)は、白鳳年間(7世紀後半)に、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)(菩薩号:神変大菩薩(じんべんだいぼさつ))によって開創されました。
役行者は、『続日本紀によりますと、舒明天皇6年(634年)1月元旦、御所市茅原で挺生しました。幼名は小角(おづぬ)といい、幼少の頃より葛城山で修行し、のち、金峯山にて壱千日の苦行の末、金剛蔵王大権現を感得しました。
また、全国の霊山名峯で役行者の開山伝説を持たない所は希有なほど、その足跡を多くの行所に残しています。その行力によって、超人的な境地に達し、宗教家としての名声が当時の天下に鳴り響いていたのは間違いないと言えます。
文武天皇3年(699)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の諌により伊豆大島に流罪になり、3年後の大宝元年(701)、許されて都に戻ったと続紀は語ります。また、同年6月7日箕面天上ケ岳において昇天されたと伝えられていますが、異説も多くあります。その1つに、海を渡って入唐したなどとも伝説されています。
その役行者によって桜の木に刻まれた蔵王権現像は、山上ケ岳と吉野山の2ヶ所に安置され、これが山上山下の蔵王堂の興りであり、金峯山寺の草創です。
平安時代から中世にかけては、奈良の興福寺と深い関係がありました。平安時代以降、金峯山は多くの僧徒と寺領荘園を有し、僧兵の活動も顕著でした。元弘3年(1333)に鎌倉幕府の大軍に攻め寄られ、堂舎は多く焼かれてしまいました。
江戸時代になりますと、金峯山は、天台宗の僧で、徳川家康の顧問である天海僧正に支配され、日光輪王寺、比叡山延暦寺と、たいへん深い関係を持つことになりました。
明治維新ののち、政府によって神仏分離が断行され、一時は、修験道自体が廃止されました。しかし、政府への嘆願の功が成り、明治19年に、仏寺に復帰しました。これ以後、山上は大峯山寺、山下は金峯山寺として、別々に歩むことになりました。
奈良、世界遺産見物(奈良散策)②(by 晴れ男。さん)
奈良見物2日目は法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺にいきました。
○【法隆寺】
創建の志半ばで崩御した用明天皇の意志を継ぎ、推古15年(607)に、聖徳太子と推古天皇が寺と本尊を完成させた。五重塔や金堂などは世界最古の木造建築とされ、平成5(1993)年には日本で初めてユネスコの世界遺産に登録された。無数の文化財を所蔵し、国宝・重要文化財だけでおよそ190件、仏像だけでも約650体があるという。参考図書として、「法隆寺の謎を解く」(武澤秀一著、ちくま新書)を利用した。
(画像1~11)
○【中宮寺】
もとは今の寺地の東500mのところにあり、斑鳩尼寺と呼ばれていた。聖徳太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために、その宮を寺としたものと伝えられている。2度にわたる昭和の発掘調査で当初は塔と金堂が縦に並ぶ「四天王寺伽藍配置」の大寺であったことがわかった。平安時代以降衰退して鎌倉時代に復興するが再び衰え、現在地に移ったという。室町時代に尊智女王が入寺し、その後宮家の女性が入寺する門跡寺院(尼門跡)となり、斑鳩御所とも呼ばれた。
(画像12)
○【法輪寺】
聖徳太子の子、山背大兄王や由義王が推古天皇30年(622年)に太子の病気快復を祈って建立したと伝えられるが、法隆寺が炎上したと『日本書紀』が書く天智天皇9年(670年)に百済の開法師らが建立したしたという説もある。中世には衰微し、昭和19年の落雷によって三重塔を焼失する。現在の塔は、昭和59年に再建された。
(画像13~15)
○【法起寺】
所在地にちなんで岡本寺、また池後寺(池尻寺)と呼ばれた寺。推古天皇30年(622年)に聖徳太子の遺命により、山背大兄王が太子の岡本宮跡に造営。創立は露盤銘により舒明天皇10年(638年)に福亮が弥勒像を造立し、金堂を建てたとされている。わが国最古最大の三重塔は白鳳時代に建立されたものだが、金堂と塔の位置が法隆寺とは逆で、「法起寺式伽藍配置」と呼ばれる。元禄7年(1694年)再建の本堂など、ほかの建物は後世のもの。
(画像16~17)
有馬温泉 【2】 古湯の歴史(by ソフィさん)
今回行った「太閤の湯」は、2005年4月グランドオープン。
17種類と称する湯の中で、大浴槽の金泉と銀泉をブレンドした「天下の湯」や銀泉の「くつろぎの湯」、露天の金泉「太閤の岩風呂」など、一泊で5回の入浴を楽しんだ。
有馬温泉の守護神湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)。
有馬温泉の存在が広く知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593~641年)、第36代孝徳天皇(596~654年)両天皇の行幸から。
日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述がある。
その後徐々に衰退に向かった有馬を再興し、有馬温泉の基礎を開いたのが聖武天皇(701~756)の信任あつかった名僧行基。
平安時代に入ると、多くの文人や天皇、重臣たちも有馬を訪れ、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いている。
当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていた。
しかし承徳元年(1097)、洪水があって人家を押し流し、温泉も壊滅。
この大洪水以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したと考えられる。
荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野からやってきて有馬の再興を果たす。
ところがその後三百余年を経て、享禄元年(1528)大火に見舞われ、有馬は焦土化。
天文14年(1545)には戦渦に巻き込まれ、天正4(1576)年再度の大火があり、有馬は壊滅的なダメージをうける。
その後、天下統一の地固めに目途がついた天正11(1583)年、秀吉は、長らく続いた戦で疲れた心身を有馬の名湯で癒そうとした。
秀吉は再三有馬を訪れ、慶長2(1597)年大規模な改修工事を開始。
この直接のきっかけは、前年慶長伏見地震で、建物の被害も甚大だったが、温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまったことだった。
以来350年間、有馬町(明治29年に湯山町から有馬町に改称)は一度も泉源の改修工事を行っていない。
秀吉は、工事が完成した慶長3年(1598)の5月に入湯の予定だったが、激しい風雨のため中止となり、同年の8月18日に没したため、ついにその成果をみることができなかった。
(参考 有馬ビューホテル ホームページ)